年齢は三十代半ば。だが、どこか疲れたような目をしている。
「初めまして。田嶋千尋(たじま ちひろ)と申します」
千尋はそう名乗ると、深く頭を下げた。
握った手が震えているのが、遥にはすぐにわかった。
――この人は、今日、人生を変えるために来たのだ。
遥は、手元のメモ帳を閉じ、静かに顔を上げた。
「今日は、よくいらしてくださいました」
柔らかな声でそう告げると、千尋の緊張が少しほどけたようだった。
話はこうだった。
千尋は、地方都市で商店を営む家に嫁いだ。夫は古風な価値観を持ち、
男は外、女は内、という考えを当然のように押し付けてきた。
小さな意見も許されず、日々、千尋は自分を押し殺して生きてきた。
「でも……」
千尋は声を震わせながら言った。
「私、息子が生まれて、思ったんです。この子には、自由な心で生きてほしいって。
なのに、私自身が自分を縛っているなんて、あまりにも矛盾している……って」
彼女の瞳には、涙が光っていた。
遥は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
無理もない。
誰しも、知らず知らずのうちに「正しい」と刷り込まれた檻に、自らを閉じ込めてしまうものだ。
でも、千尋はそこから抜け出そうとしている。
自分だけの力で、自由な未来を手に入れようとしている。
――それは、どんなに勇気がいることか。
遥は一瞬、十年前の自分を思い出していた。
男性中心の弁護士社会で、「女のくせに」と陰口を叩かれ、何度も心が折れそうになった。
でも、そのたびに胸に浮かべたのは、スズランだった。
踏みにじられても、寒さに震えても、ひっそりと白い花を咲かせるスズランの、
あの小さな、しかし確かな生命力を。
遥は、にっこりと微笑んだ。
「千尋さん。あなたの願いは、間違っていません」
その一言に、千尋は目を見開いた。
遥は続けた。
「純粋な心で、自分の未来を守ろうとすること。それは、決して恥ずかしいことじゃない。
むしろ、強さです」
千尋の頬を、涙が伝った。
「でも……怖いんです。私一人で、何ができるか……」
遥は、そっとスズランの花を指さした。
「見てください。この小さな花、たった一輪でも、こんなに美しい」
千尋は、スズランを見つめた。
かすかに震えるその花びらに、どこか自分を重ねた。
弱々しく見えても、確かにそこに咲いている。
たとえ誰に踏みにじられようとも、自分の意志で、空に向かって立ち上がっている。
「私はあなたを支えます」
遥は、まっすぐに言った。
「たとえ世界中があなたを責めたとしても、私はあなたの味方です。
あなたがあなたらしく生きるために、一緒に闘いましょう」
千尋は、顔を覆って泣いた。
こんなにも自分を信じ、支えてくれる人がいる。
それだけで、暗いトンネルの向こうに、微かでも光が見えた気がした。
――私は、変われるかもしれない。
それから半年後。
千尋は離婚を成立させ、自らの力で小さなカフェを開いた。
店の名前は、「スズラン」。
オープンの日、遥が訪れたとき、千尋は満面の笑顔で迎えてくれた。
「先生……いえ、遥さん。あの日、スズランの花のように生きろって言ってくれて、ありがとう」
店内には、たくさんのスズランが飾られていた。
その白い花たちは、確かに、純粋な心で咲いていた。
そして、千尋自身も、誰にも縛られず、自分の意志で咲き誇っていた。
遥は、千尋に向かって静かに微笑んだ。
「これからもずっと、自分のために、咲いてください」
外には、初夏の光が溢れていた。
スズランの香りに包まれながら、二人はそっと、未来を見つめていた。
