スズランの咲く場所で  作 はるの さくら


 初夏のやわらかな風が、事務所の小窓から流れ込んでいた。
 机の上に、白く可憐なスズランの花が小さな一輪挿しに揺れている。

 その日、弁護士・神谷遥(かみや はるか)のもとを訪れたのは、清楚なワンピースを身にまとった女性だった。
 年齢は三十代半ば。だが、どこか疲れたような目をしている。

「初めまして。田嶋千尋(たじま ちひろ)と申します」

 千尋はそう名乗ると、深く頭を下げた。
 握った手が震えているのが、遥にはすぐにわかった。

 ――この人は、今日、人生を変えるために来たのだ。

 遥は、手元のメモ帳を閉じ、静かに顔を上げた。
 「今日は、よくいらしてくださいました」
 柔らかな声でそう告げると、千尋の緊張が少しほどけたようだった。

 話はこうだった。
 千尋は、地方都市で商店を営む家に嫁いだ。夫は古風な価値観を持ち、男は外、女は内、という考えを当然のように押し付けてきた。
 小さな意見も許されず、日々、千尋は自分を押し殺して生きてきた。

「でも……」
 千尋は声を震わせながら言った。
「私、息子が生まれて、思ったんです。この子には、自由な心で生きてほしいって。なのに、私自身が自分を縛っているなんて、あまりにも矛盾している……って」

 彼女の瞳には、涙が光っていた。
 遥は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
 無理もない。
 誰しも、知らず知らずのうちに「正しい」と刷り込まれた檻に、自らを閉じ込めてしまうものだ。
 でも、千尋はそこから抜け出そうとしている。
 自分だけの力で、自由な未来を手に入れようとしている。

 ――それは、どんなに勇気がいることか。

 遥は一瞬、十年前の自分を思い出していた。
 男性中心の弁護士社会で、「女のくせに」と陰口を叩かれ、何度も心が折れそうになった。
 でも、そのたびに胸に浮かべたのは、スズランだった。
 踏みにじられても、寒さに震えても、ひっそりと白い花を咲かせるスズランの、あの小さな、しかし確かな生命力を。

 遥は、にっこりと微笑んだ。
 「千尋さん。あなたの願いは、間違っていません」
 その一言に、千尋は目を見開いた。

 遥は続けた。
 「純粋な心で、自分の未来を守ろうとすること。それは、決して恥ずかしいことじゃない。むしろ、強さです」

 千尋の頬を、涙が伝った。

 「でも……怖いんです。私一人で、何ができるか……」

 遥は、そっとスズランの花を指さした。
 「見てください。この小さな花、たった一輪でも、こんなに美しい」

 千尋は、スズランを見つめた。
 かすかに震えるその花びらに、どこか自分を重ねた。
 弱々しく見えても、確かにそこに咲いている。
 たとえ誰に踏みにじられようとも、自分の意志で、空に向かって立ち上がっている。

 「私はあなたを支えます」
 遥は、まっすぐに言った。
 「たとえ世界中があなたを責めたとしても、私はあなたの味方です。あなたがあなたらしく生きるために、一緒に闘いましょう」

 千尋は、顔を覆って泣いた。
 こんなにも自分を信じ、支えてくれる人がいる。
 それだけで、暗いトンネルの向こうに、微かでも光が見えた気がした。

 ――私は、変われるかもしれない。

 それから半年後。
 千尋は離婚を成立させ、自らの力で小さなカフェを開いた。
 店の名前は、「スズラン」。

 オープンの日、遥が訪れたとき、千尋は満面の笑顔で迎えてくれた。
 「先生……いえ、遥さん。あの日、スズランの花のように生きろって言ってくれて、ありがとう」

 店内には、たくさんのスズランが飾られていた。
 その白い花たちは、確かに、純粋な心で咲いていた。
 そして、千尋自身も、誰にも縛られず、自分の意志で咲き誇っていた。

 遥は、千尋に向かって静かに微笑んだ。
 「これからもずっと、自分のために、咲いてください」

 外には、初夏の光が溢れていた。
 スズランの香りに包まれながら、二人はそっと、未来を見つめていた。